プロと何が違う? 文章のクオリティとは【第1章 電撃の文章術】
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文章力アップを目指す方が、本書の内容を納得の上で購入していただくために、総合科学出版にOKをもらい、本書の一部を公開しました!
「第1章 電撃の文章術」より『プロと何が違う? 文章のクオリティとは』です。
目次
プロと何が違う? 文章のクオリティとは
文章を書こうとすると、まず真っ先に、文章のクオリティが必要だと考えるかもしれない。
文章のクオリティ……人によっては「文章力」という表現で呼ぶことがある。
確かに、文章がまったくワケのわからないものだったら、内容がまったく伝わらないか、情報が誤って伝わってしまう。
たとえば、古典文学『枕草子』の「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際、少し明かりて」。
これなんて、千年の時を超えて残っているくらいだから、超絶文章クオリティといっても過言ではない。でも、現代文として翻訳されていなければ、まったく意味がわからない。
古文の授業を休んでいて『枕草子』を知らない人が上の文章を見たら、ほぼ確実に、理解できないか間違った意味で認識するだろう。
相手に間違った認識を与えてしまうようでは、コミュニケーションは成立しない。
なので、文章を書くうえで、読み手とのコミュニケーションを成立させるための最低限の「文章力」は必要だ。
ただこれは、食べ物であれば「お腹を壊さずに食べられるレベル」が必要ということに近い。
「優れた文章力」……食べ物でいうと「美食レベル」が必要かというと、必ずしもそんなことはない。
実際に、飲食店を見てほしい。確かに、日本には美味しい飲食店が多い。
だが、どこもここも美食レベルに美味しい飲食店か?……というと、そうではないだろう。
また、美食レベルじゃなければ経営が続けられないか? ……といえば、そんなこともない。
味はそこそこだけど料理の提供が早い立ち食いソバ屋だとか、味はそこそこだけど安くて量の多い大衆食堂みたいな飲食店でも人気の店はある。
文章も例外ではない。
そもそも文章の価値には、3つの方向性がある。
「情報としての価値(=ネタ)」「構成としての価値(カタ)」「文章力としての価値(デコ)」だ。そして、商品としての完成形によって、重視される価値が違っている。どんな風に違っているか?
たとえば、ニュースは最も「情報としての価値(=ネタ)」が求められるジャンルだ。
事件があったのかなかったのか、地震の震度がいくつだったのか、津波の恐れがあるのかないのかを伝えるのに、その場にいるかのような臨場感を再現する文章力も、抒情感タップリに心に染みる文章力もいらないだろう。
簡潔に、事実を伝えてくれればそれでいい。
一方、詩や小説……それも純文学は、「文章力としての価値(デコ)」が求められるジャンルだ。
たとえば、作家・夢野久作が『猟奇歌』という作品で記した表現で、次のような素晴らしいものがある。
闇の中に闇があり、その中にまた、闇がある。その核心から、血潮滴る。……夢野久作「猟奇歌」より
黒を煮詰めたような漆黒、さらにその奥の光さえ届かない闇から、鮮やかな赤い血が流れるビジュアルが、目の前に浮かんでくる……。なんとも鮮烈な表現だ。
これをただ単に「真っ暗な闇の中央から血が流れていた。」と表現したら、どうだろう?
原文では「闇の中に闇」と言っているが、厳密には闇の中に闇などありえない。闇といったら闇だ。真っ暗なのだから、真っ暗な中に真っ暗など意味不明だ。
つまり、「闇の中に闇」というのは暗さを表現する言い回しに過ぎない。
なので、シンプルに「真っ暗な闇の中央」と表現しても、情報的には同じはずだ。
ところがどうだろう、「真っ暗な闇の中央」としたときのこの感動しなさ加減! まったく情緒のかけらもない! 全アメリカを泣かせるどころか、過疎化が進むカンザス州の限界集落を泣かせることすら無理だろう!
そもそも「闇から血が流れている」という事実に、「情報としての価値(=ネタ)」はないのだ。
「闇から血が流れている」と言われて「得した!」と思うこともなければ「逃げなきゃ」と思うこともない。
つまりこの詩は、「文章力としての価値(デコ)」によって作品全体の価値が作られている。「闇の中に闇」という表現から、闇がどれだけどす黒いのかを想像し、その中から流れる血潮の鮮やかさを感じる。闇と持つ怖さ、おぞましさ。鮮やかな血が対比する艶めかしさ。
これらを作り出しているのが「文章力としての価値(デコ)」なのだ。
ところで試しに「文章力としての価値(デコ)」をニュースに適用してみるとどうだろう?
震度6クラスの地震が起きた際のニュースで……
「東京の街が、震えました。それはまるで、地球が怒りに震えているかのような轟々とした揺れ。揺れのために視界がぐにゃりと、飴のように曲がってしまったかと思うほど……。人間の所業が地球の逆鱗に触れたのかもしれません…」
……な~んて伝えられたら?
わかりにくくてたまったもんじゃない。
かろうじて東京で何かがあったことは把握できるが、地震なのか、爆発事故なのか、あるいは爆破事件なのか、何が起きたのかわかりにくい。地震だとしたら震度はいくつなのか、津波の恐れがあるのか、東京のどこから近郊どの範囲にかけて影響があるのか、逃げる必要があるのかないのか、さっぱりわからない!
ニュースを見ている誰もが「もっと端的にわかりやすく伝えてくれ!」と思うだろう。
つまりまとめると、ニュースや小説、などなど商品としての完成形が何かによって文章に求められる価値は異なっており、完成形に応じて「情報としての価値(=ネタ)」「構成としての価値(カタ)」「文章力としての価値(デコ)」のどこに注力するかも変わってくるということなのだ!